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戦前の総理大臣近衛文麿と荻窪にある荻外荘

荻窪には近衛文麿の別荘がありました。現在では想像できませんが、戦前の荻窪は田んぼや原っぱも多く、のどかな風景が広がっていました。そんな荻窪で近衛文麿は昭和12年から昭和20年12月の自決に至る期間を過ごしていました。

もくじ

    1. 「第34代内閣総理大臣近衛文麿」
    2. 「近衛内閣の足跡」
    3. 「終戦工作
    4. 「戦争責任について」
    5. 「華麗なる近衛家の家系図」
    6. 「荻窪にある荻外荘」
    7. 「荻外荘会談」
    8. 「おわりに」
「第34代内閣総理大臣近衛文麿」

近衛文麿は父篤麿の長男として誕生しました。学習院初等科・中等科から第一高等学校(現在の東京大学教養学部、千葉大学医学部の前身)から東京帝国大学文科大学哲学科(現東京大学文学部)を経て京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)卒業後、25才で貴族院議員となります。貴族院議長も就任しました。二・二六事件後の広田内閣、林内閣後、史上2番目の若さ(1番は伊藤博文)で内閣総理大臣になります。伊藤博文は初代総理大臣でかなり特殊のケースですので異例の若さでの総理大臣となります。盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が起こります。戦線不拡大を訴えつつ戦費の拡大は承認するなど反対の対応を行う政策をとります。日中戦争の泥沼化を心配した石原莞爾が日中首脳会談を提案し、近衛も乗り気でしたが、直前になり心変わりし首脳会談を取り消しました。この近衛文麿の優柔不断な性格が後の日本を泥沼化させました。後に和平交渉を打ち切り、講和の機会を閉ざしました。その後第二次近衛内閣を発足しました。「政党の解散」による大正デモクラシーの終焉、大政翼賛会への合流、日独伊三国同盟の締結により枢軸国入りなど太平洋戦争の流れは近衛内閣の時期に成立しました。

 

「近衛内閣の足跡」

1937年6月第一次近衛内閣が発足しました。7月に日中戦争が勃発しました。当初は不拡大方針をとっていましたが、軍部に押し切られ、全面戦争となってしまいました。有名な「国民政府と相手せず」とし平和への道を自ら閉ざしました。日中線戦争の拡大はそのまま太平洋戦争へとつながり、日本に甚大な被害を出しました。

 

「終戦工作」

太平洋戦争開始後、元外務大臣・駐英大使の吉田茂と終戦工作を試みるようになります。ミッドウェー海戦の大敗後、交渉を試みるが、内大臣木戸幸一(大叔父木戸孝允)に潰されることになります。東条(開戦時の総理大臣)から和平交渉に対して脅しをかけられたことで優柔不断で弱気だった近衛を激怒豹変させることもありました。その後積極的に和平運動を行いました。戦局が悪化し1945年(昭和20年)、昭和天皇に対し「近衛上奏文」を奏上しました。この上奏文は作成に関わった吉田茂などが逮捕拘束され昭和天皇からも却下されています。

終戦後もGHQに協力し新憲法の制定など試みようとしていました。

 

「戦争責任について」

近衛は一貫して日中戦争の泥沼化と太平洋戦争の開戦責任は軍部にあり、天皇も内閣も飾りでしかなかったという釈明をしました。しかし、自身の戦争責任を全て軍部に転嫁する態度は当時から今日に至るまで厳しく批判されています。

「華麗なる近衛家の家系図」

近衛家は藤原北家の嫡流で公家の五摂家の筆頭です。華族の公爵家で天皇家に最も近いとされている家系でした。藤原家(中臣鎌足、藤原不比等が祖)の代表となる家系です。中世から戦前まで政治の表舞台で活躍していました。

父・近衛篤麿(貴族院議長) 義父・毛利高範(貴族院議員) 叔父・徳川家達(貴族院議長)

叔父・津軽英麿(貴族院議員) 義兄・黒田長和(貴族院議員) 弟・近衛秀麿(貴族院議員)

弟・水谷川忠麿(貴族院議員) 義弟・大山柏(貴族院議員) 従兄・徳川家正(貴族院議長)

孫・細川護熙(内閣総理大臣)など

 

「荻窪にある荻外荘」

東京都杉並区荻窪にある近衛文麿の邸宅であった荻外荘の名称は「荻窪の外」という意味でつけられたとされています。命名者は西園寺公望とされています。当時の荻窪はのどかな田園風景が広がっていました。戦前の内閣総理大臣を2回(三期)務めた近衞文麿が、昭和12年から昭和20年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所です。戦後、吉田茂総理と娘の和子(麻生太賀吉の妻、麻生太郎元総理の母)が一時期住んでいました。

平成28年3月1日に、こうした歴史を持つ「荻外荘(近衞文麿旧宅)」が、日本政治史上、重要な場所として、国の史跡に指定されました。

荻外荘公園: 東京都杉並区荻窪2丁目43

「荻外荘会談」

荻外荘を訪れた人物は多岐に渡ります。主だった人物で松岡洋右(外相)、東条英機(陸相、首相)、吉田善吾(海相)、吉田茂(外相、首相)など当時の重要閣僚が日本の針路を話し合う場となっていました。特に中国大陸の戦線拡大と関係安定交渉を並行させつつ、日独伊三国同盟の締結、その後の太平洋戦争回避、終戦交渉など戦前の政治がここで繰り広げられました。特に、日米開戦約2か月前に,東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁で行われた、いわゆる「荻外荘会談」が行われました。ここで日米開戦について話し合われました。

「終わりに」

荻窪は風情豊かで歴史的史跡も多く、その名残を所々とどめています。与謝野鉄幹・晶子旧居跡、太宰治下宿跡など文化人が好む地域でもあります。公園も多くあるので散策するのもよいでしょう。

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